短文
問題一
教師=話す人、生徒=聞く人という構造が知らず知らずのうちに教室空間にできあがり、そして固定化してしまうのは恐ろしいことではないかと思う。教師が先取りしてしまうことで、生徒が自分自身で考え、解決しようとする芽をつみとってしまう場合がある。
いつも話し続けるのがコミュニケーションでない。教師側が沈黙し、「待つ」という行為も時には大切であろう。もう少し話したい、と思うところで一歩ひいてみる(注)ことで、相手が言おうとすることを引き出すことができるのである。
(徳井厚子「日本語教師の「衣」再考-多文化共生への課題」による)
(注)一歩ひいてみる:ここでは、話すのをやめてみる。
- 先取り:他人よりも先に物を取ったり、事を行ったりすること。
- つみとる:大きく育つ前に取り除く。
問題二
以下は、ある市役所のホームページに掲載されたお知らせである。
2016年11月1日
スポーツ課
市民運動場の予約について
市民運動場の予約は、これまで管理事務所窓口で受け付けておりましたが、2017年2月1日よりインターネット上の予約システムでも行うことができるようになります。予約システムの利用は平日、土日祝日を問わず24時間可能で、予約は、窓口での予約と同様に、使用日の一ヵ月前から受け付けます。
予約システムの利用に際しては、事前に利用者登録が必要となりますので、身分を証明できるものを持って管理事務所窓口にお越しください。
市民運動場管理事務所〒002-3833南松市中央町3-2中央公園内
(受付時間:月曜日-金曜日9:00-17:00)
- 土日:土曜日と日曜日。
問題三
異文化間での対話を議論するときに、必ずといってよいくらい出てくるのが、価値観の理解と共有である。他者と対話を通して、人間関係を樹立していくには、自己の価値観を保存したままで、他者の価値観を理解するという方略だけでは十分ではない。相互的な働きかけを通じて、何か新たな価値を共有することが要求されるのである。すなわち、自らの価値観を相対化し、新たな価値を対話という共同作業を通して創り上げ、それを共有していく態度が必要なのだ。
(ARCLE編集委員会・田中茂範・アレン玉井光江・根岸雅史・吉田研作編著「幼児から成人まで一貫した英語教育のための枠組み-ECF-English Curriculum Framework」による)
- 相対化:ある事象を他の事象と比較し、その関係性や違いを理解すること
問題四
以下は、劇を作ることを仕事にしている人が書いた文章である。
僕は「変な人」です。そうでなければ、こんな仕事はしてません。そして僕は「普通の人」です。だからこそこの仕事が成立しています。
「特別なもの」を生み出そうとするとき、それがどんなふうに特別なのかを「普通」という視点から見極める必要があります。「特別」と「普通」、定規を何度も持ち替えるのです。そのために自分の中の普通さを死守するのです。
(小林賢太郎「僕がコントや演劇のために考えていること」による)
- 定規:規準・標準となるもの。
- 持ち替える:持つものをかえる。
中文
問題一
人に従順な飼い犬は、もともとオオカミの仲間を飼い馴らしたものである。
(中略)
ところが、「人間がオオカミを飼い馴らした」という話には謎が多い。犬が人間と暮らすようになったのは、15000年ほど前の旧石器時代のことであると推測されている。当時の人類にとって、肉食獣は恐るべき敵であった。そんな恐ろしい肉食獣を飼い馴らすという発想を当時の人類が持ち得たのだろうか。しかも犬を飼うということは、犬にエサをやらなければならない。わずかな食糧で暮らしていた人類、犬を飼うほどの余裕があったのだろうか。また、当時の人類は犬がいなくても、狩りをすることができた。犬を必要とする理由はなかったのである。
最近の研究では、人間が犬を必要としたのではなく、犬の方から人間を求めて寄り添ってきたと考えられている。犬の祖先となったとされる弱いオオカミたちは、群れの中での順位が低く、食べ物も十分ではない。そこで、人間に近づき、食べ残しをあさるようになったのではないかと考えられているのである。
弱いオオカミだけでは、狩りをすることができないが、人間の手助けをすることはできる。そして、やがて人間と犬とが主に狩りをするようになったと推察されている。こう考えると、当時,自然界の中で強い存在となりつつあった人間に寄り添うことは、犬にとって得なことが多かった。つまり、人間が犬を利用したのではなく、犬が人間を利用したかもしれないのである。
(稲垣栄洋「弱者の戦略」による)
- 飼い馴らす:動物にえさを与えたりして、なつかせる。
- 寄り添う:もたれかかるように、そばへ寄る。
- あさる:動物がえさや獲物を探し求める。
問題二
子どもはこれから自分は大人になっていくのだから、自分はどうなるのだろうとそれは一生懸命に大人を観察している。その大人に魅力を感じれば、あんなふうになりたいと思うかもしれない。ほんのちょっとチャーミングなところを認めて、ああ失敗しても、どじ(注1)ばかりでもいいんだと思えることもあるかもしれない。あるいは、僕はあんな大人にはならないだろうけれど、あんなふうにするのもすてきだなと感じることもあるに違いない。とにかく子どもは、そんなふうに常に大人を見ているのである。
(中略)
子どもはやがて大人になる。その大人に魅力がなかったら、それは自分に明日がないと言われているのと同じことだ。大人になってもつまらなそうだ。楽しいことがなさそうだと感じたら、君の未来はこの程度のものだとつきつけられているのと変わらない。
これほど子どもにとって不幸なことはない。
大人はいつも子どもに見つめられている、子どもが自分を観察しているということを自覚していなければいけないと思う。わが身をつくろって、いいかっこするのではない。正直に失敗するのなら、子どもより上手に失敗してみせよう、傷つくなら子どもより上手に傷ついてみせよう。人生の先輩としてというより、現役の子どもに対してベテランの子どもとして、ベテランらしいところを見せてやろうじゃないか。そういう気概の(注2)大人がたくさんいれば、子どもたちはきっと大人の世界に魅力を見いだすに違いない。それが幸福な子どもの将来につながるのだと思う。
(大林宣彦「父の失恋 娘の結婚-べそっかきの幸福そうな顔」による)
(注1)どじ:うっかりした失敗
(注2)気概の:ここでは、強い気持ちを持った
- チャーミング:魅力あるさま。
- やがて:それにほかならない。
- つきつける:強い態度で文書などを相手に差し示す。
- つくろう:ぐあいの悪いことや過失を隠して、うまくその場をとりなす。
問題三
科学記者を始めた20年ほど前、記者の訪問を歓迎しない科学者は、決して珍しくなかった。「新聞記者との付き合いには何のメリットもなく、時間の無駄。記者と親しい科学者は、同僚からうさんくさい目で見られる。真理の探究に没頭する科学者が、記者なんていう世俗を相手にしては沽券(注1)にかかわる」というわけだ。それが今は、まったく違う。科学者も、研究に税金を使うからには自分の仕事を積極的に世間に説明するのが当然だとみなされ、大学や研究所はメディア戦略を練るまでになった。変われば変わるものだ。
(中略)
科学者側の広報が巧みになればなるほど、科学ジャーナリズムは科学者集団のたんなる宣伝係で仕事をした気になってしまう恐れがある。
「サイエンス」や英国の「ネイチャー」に載る科学者の論文を、どの新聞も毎週のように記事にして紹介している。その多くが、これらの論文誌の巧みな広報資料や研究者の記者発表をもとにしているのだが、これなどまさに、何を社会に伝えるかは自分で決めるというジャーナリズムの要(注2)を、科学者集団側になかば預けてしまっているのではないか。
自分でネタ探しをするよりも、このほうがたしかに効率的なのだ。
米国の科学ジャーナリズムの教科書には、科学者たちはマスメディアを自分たちの広報機関のようにとらえるものだと書いてある。科学ジャーナリズムは、広報戦略に長けてきた(注3)科学者たちとどう付き合っていくべきか。その哲学と戦略を、こちら側も改めて肝に銘じて(注4)おかなければならない時代になった。
(YOMIURI ONLINE2010年3月7日取得による)
(注1)沽券にかかわる:体面を損ねる
(注2)要:最も大切な部分
(注3)長けてきた:上手になってきた
(注4)肝に銘じて:忘れないように心にしっかりととどめて
- うさんくさい:どことなく怪しい。疑わしい。
- 練る:さらによいものにするために内容を検討したり、手を加えたりする。
- 変われば変わる:物事は変わるとなると本当にすっかり変わるものだ。
- ジャーナリズム:新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどにより、時事的な問題の報道・解説・批評などを伝達する活動の総称。
統合理解
A
雑談はいろいろな意見を交換し合うことによって、ヒントを得ようというスケールの大きな場である。そこにいる誰もが自由に発言する権利を持っている。仮に自分とは反対意見であっても、まずは聞くという姿勢を保つこと、心理学のカウンセリングと同じである。そして相手の発言に対して、自分の意見を軽い気持ちで述べる、それが雑談である。どんなに間違っている、バカバカしいと思われる意見であっても、いったんそれを受け入れること。「なぜあの人はこのような発言をするのか」と考えていくと、自分がそれまで見落としていたことがあることに気がつくこともある。「話し上手は聞き上手」という言葉があるように、雑談では「いかに発言するか」よりも「いかに聞くか」が大切になる。
(多湖屋輝「人の心をつかむ「雑談力」情報が集まる「雑談力」による)
B
雑談は無駄だという人がいるが、本当にそうだろうか。辞書を調べると「無駄話」という意味もあるが、「さまざまなことを気楽に話し合うこと」という意味もある。気楽な気持ちのとき、人は本音を話すものだ。バカバカしいと思う話もあるかもしれないが、雑談の中から相手の人間性が見えてくる。そうは言っても、気楽に話せる雰囲気を作るのは簡単なことではない。まずは、自分から話のきっかけになりそうな小さなエピソードを話しそう。相手が話に乗って(注)きたと思ったら、そこで自分の本音を話してみよう。そうすれば、相手もやがて心を開いて話し始めるだろう。そうなれば、雑談も意味のある時間となる。
(注)話に乗る:ここでは、話に興味を持つ
- スケール:大きさの程度。規模。
- 仮に:現実ではないが、もしあったとして。
- カウンセリング:相談者が抱える悩みを引き出し、問題解決に向けてサポートする。
- 見落とす:見ていながらそれに気づかずにいる。見もらす。見過ごす。
- エピソード:小説・劇などで本筋の間にはさむ、本筋とは直接関係のない、短くて興味ある話。挿話。
- やがて:まもなく。
長文
内容理解
暮らしの中で身近な木といえば、街路樹と公園の樹木、そして住宅の庭の木あたりでしょうか。いずれも毎日目にはしているものの、あらためて意識することは少ないと思います。でも、例えばこれがすべて枯れてしまったとしたらどうでしょう。なんとも寂しく、無味乾燥な、あるいは何か病気を連想させるようなイメージのまちになってしまうのではないでしょうか。また、昨今は、維持管理の面などから街路樹を植えないまちなどもあるようですが、一見近代的、未来都市的なイメージもしますが、うるおいややすらぎのないまちのようにも見えます。このようにまちの樹木は、実はとても大きな役割を持っています。
では、この木々たちは、ただ植えるだけ、存在するだけでいいのでしょうか。そうではありません。そこに意味や意識がなければならないのです。わかりやすく言うと、街路樹の樹種を何にするかというようなことです。その土地の植生(注1)を踏まえ、その上に歴史性や未来性を重ね合わせる。季節の移ろいの中で、人々がその木をどのように眺めながら暮らしていくのか。そんな積み重ねの上にはじめて「ここにはこの木を植えよう」ということになる。①それがその木がその場所に存在する意義です。
住宅の庭木も同じです。単に自分の好みばかりでなく、その木が住宅街の小路をどのように演出するのか、まわりとの調和はどうなのか。そんなことを考えていくのがまちづくりの中の「木」です。昨今のガーデニングブームで、確かに個々の家の庭は立派になりました。花や木の種類もずいぶん増えて、ひと昔前には無かったような色や形も見られます。そして、ガーデニングをする人達の情報交流も盛んとなり、新たなコミュニティも生まれているようです。しかし、いま一つ自分の土地から外に広がっていない感じがします。道路や公園は地域にとっての共有の庭であり、個々の部分と共有の部分が美しくなってこそはじめて全体が美しくなるのです。美しく楽しい庭を作っている人々には、②もっと欲張って美しく楽しいまちをつくってほしいと思います。
「愛でる」という言葉があります。これは主に植物に対して使われます。満開の桜や初夏の新緑、真夏の木陰や秋の紅葉…私たちは折々に(注2)木々を眺め、そこに日々の暮らしを重ね合わせたり、育ちゆく木々に子供達の明るい未来を願ったりしているのではないでしょうか。そしてそんな思いをこめて水やりや手入をする。これが「愛でる」ということだと思うのです。その愛でる心と愛でられる木々があってはじめてよいまちとなるのです。
(加藤美浩「まちづくりのススメ」による)
(注1)その土地の植生:その土地にどのような植物が生えているか。
(注2)折々に:ここでは、機会があるごとに
- 無味乾燥:おもしろみも風情もないこと。また、そのさま。
- 昨今:このごろ。近頃。
- うるおい:しめり気。
- やすらぎ:心がゆったりと落ち着いて穏やかなこと。
- 移ろい:移り変わること。
- ガーデニング:園芸。造園。特に、自然の風景をそのまま生かしたイギリス風の庭作りをいう。
2 comments
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